九頭竜川の源流の村に伝わる伝説
和泉地区には、昔から伝わっている(義平公と青葉の笛)と言う有名な伝説がある。
今から約800年前平治の乱に敗れた(源義平)が穴馬の里に落ち延びて来た。敗残の将(義平)を暖かく匿ったのが村の長(朝日助佐衛門)だった。
助佐衛門にはおみつという美しい娘がいた。義平の身に回りの世話をする間に若い二人には恋が芽生え、やがておみつは義平の子を宿すことになった。
生まれて来る子を楽しみに待ちながら幸せな日々を過ごしていたが、ある日「父の義朝が京で捕らわれ、さらし首になっている」との報せが入った・・源氏の嫡男である義平は武士の習いとして、父の首を取り戻し、何とか仇(清盛)に一太刀なりとも浴びせんと京に上る決心をした。・・・別れに際し「もし生まれて来る子が男ならば、いずれ源氏の嫡男として京に上り旗揚げさせよ・・」と一振りの太刀と白旗を残し「もし生まれて来る子が女であったら、この静かな山里で親子共々静かに暮らして、時々この笛を吹いてわしを偲んでくれ・・・・・」と、一管の横笛を残して行った。
京に上った義平でしたが、武運つたなく捕らわれ処刑されてしまった。村に残ったおみつは女の子を産みますが、義平の死を知り、義平を弔いながら形見の笛を吹き鳴らしていた。
その時の笛が、800年経った今でも、義平公から数えて三十八代目の子孫である朝日家に家宝として残っている。
その笛は直径2.5センチ、長さ38センチですが、指の孔五孔以下より折れてしまっていて吹くことは出来ません。
又、朝日家には、笛を入れていたと思われる箱板も残っています。読みにくくなっていますが、そこには次のような文書が見える。
平治二年正月二十一日より
これを代々うちの神とゆはひたてまつるべし
御はたはくまのの御やしろにおはまらせ給い
これもよしひらの御はた しそんの神とかつかう申すべし
朝日山の山神
朝日のせんそ あくけんたよしひらの
御ふえ末代のしそんにおいて うちの神たるべし
何時の時代か、朝日家の祖先のが書き残したと思われる。
又、同家の祖先が慶長11年、今から役400年前に先記を書き写したと記されている古文書(家系姓歴代之記)があり、そこには義平公からの系図が名前入りで残されている。