江戸時代から続く、地域にとって重要な産業であった手漉きの穴馬和紙。 穴馬紙(張り紙)は強靱で、虫害がないので障子紙や商家の帳簿につかわれた。旧穴馬村で漉かれた和紙に旧村名をとって穴馬紙と称していた。「穴馬紙」の名をもって知られていた和紙の製産は、いつの頃から行われていたか不明であるが、古くからどこの部落でも盛んに「紙すき」が行われていた。古い家には家の一部に紙すき場があって、紙すきを止めてからは物置などに使っていた。穴馬紙は、稗と同様に金銀の代用に使用されていた。八幡や大野の商人も穴馬紙の買い付けに来た。弘化・嘉永の頃紙の仲買を営む者もあった。県外への移出は穴馬紙だけでなく、楮皮の移出もおこなわれた。 原料は野生のコウゾであるが、コウゾは畑のボタなどに栽培していた。 大野郡誌に「大納コウゾ」の名は藩政の頃より世に知られ賞用されたと記されている。戦前まで下山・前坂では穴馬紙を相当販出しており、荷暮・上伊勢では戦前まで自家用をすいている家もあった。 紙すきを止めてからはどの部落でも、戦前までは毎年コウゾを刈り取って皮を剥ぎ、黒皮と称して岐阜県方面へ移出し、家計の一部にあてていた。 和泉村史より