近世の福井県下の鉱山史上最も有名と云われた旧和泉村上穴馬地区に存在した銅山。
旧和泉村には幾つかの金山、銅山などの鉱山がありました。中でも別途紹介する「中竜鉱山」とこの「面谷銅山」が最も規模が大きく有名です。そしてこの面谷の風景は今でもインパクトがあると思います。人気のない山道を遥かに行った先に突然現れる墓所、ほとんど木々のない山、澄み切った川水、かつては数千人が暮らしたといわれる住居跡。栄枯盛衰、歴史を感じさせてくれる場所だと思います。
「和泉村史」で近代の和泉村を執筆担当された印牧邦雄先生によれば、近世の「福井県下の鉱山史上最も有名なのが上穴馬の面谷銅山である。」されています。それくらい有名な銅山ですので、その歴史についてはいくつかの書物に紹介されています。
面谷銅山の開山については諸説あるようです。その一つが南北朝時代の康永年間(1342~1344)に漁師清兵衛が山の頂上に露出した銅を発見したとの説であります。また、『越前名蹟考』によれば寛文9年(1669)福井大火の後、材木を伐出した時に発見したとあります。そして「和泉村史」を監修された小葉田京都大学教授によれば「銅鉱の発見は寛文以前であったかもしれぬが、銅山の稼行はこの頃から起こったと思われる」とあります。その後休山をはさみながら、大正11年の閉山まで民営あるいは藩営で採鉱されたようです。
産出量については、宝永5年(1707)頃には、大阪の精銅業者に送られた大野銅(面谷銅山産出の銅は当時そう呼ばれていた)は、全国銅山の中でも11~12位の産出量であったとの記録があります。
大野藩の財政に大きく貢献をしたのは、天保12年(1841)に御手山(藩営山)として経営に乗り出した時期です。良い鉱脈が見つかった等のことから、13年間にわたり好調を続け、大野藩の一大財源となりました。そのため「大野藩の殿様は面谷に足を向けて寝なさらなんだ」という言い伝えがあったほどです。
明治22年から三菱合資会社が経営に乗り出し本格的近代鉱山が開始され、非常に活況を呈しましたが、大正に入ると輸入銅に押されるなどしたため採算が取れず、大正11年にその長い歴史の幕を閉じました。