和泉地区は福井県の東南に位置し、岐阜県に隣接しています。
福井県第一の九頭竜川最上流域にあり、東西20㎞、南北18㎞、面積332.60?で94%が森林となっています。
その発祥は、縄文石器時代の狩猟民族を元祖としています。南北朝時代より穴馬郷と称せられ、美濃と越前を結ぶ要衝の地でした。
「穴馬」は「穴間」とも書き平安時代後期から穴馬谷、穴馬道とか穴馬の名前がよく使われていました。
穴馬郷は、いくつかの藩の支配を変遷した後、廃藩置県後も大野、足羽、敦賀、石川の
諸県に属していましたが、明治22年町制実施に伴い、上穴馬村、下穴馬村が設置されました。
昭和31年に両村が合併、昭和33年には和泉村となり、その後の全国的な市町村合併により、平成17年に大野市となりました。
地区のほとんどが標高400m以上の高地で、川の恵み、山の恵みが豊富な中での生活が営まれてきました。
崩れ川といわれた九頭竜川は昭和42年の「九頭竜ダム」の完成によって、紅葉の名所となり、広大な湖面に浮かぶ景色を求めて多くの観光客が訪れています。
屈指の豪雪地帯である当地区には、二つのスキー場とクロスカントリーのコースがあり、その雪質の良さも相俟って、特に中京圏からのスキーヤーに人気があります。
また、一年の三分の一程の長い期間雪の中での閉ざされた生活は、深い信仰心が根付いてきた要因であると考えられています。
江戸前期に三河から浄土真宗が穴馬に伝えられました。本願寺直参を誇る門徒の心のよりどころとして和泉地区の各集落には「道場」があります。安政6年(1859年)に
建てられた川合道場は現在も伝統的仏事とともに、集落の人々に守られています。
和泉地区内には手取層群が縦断しており、日本最古の岩石の中からは貴重な化石が数多く発掘されています。
縄文遺跡は、県下で初めて発掘された小谷堂をはじめとして角野前坂、後野地区で多くみられました。現在は保存のため埋め戻されています。
また、地下資源として、江戸末期(1661年)頃より旧穴馬村の面谷鉱山で良質の銅が採掘されました。その後の不況と銅の価格暴落により大正11年閉山となりましたが、当時の面影となる跡地が今も見られます。
明治初期には、中竜鉱山が発見され、鉛、亜鉛鉱の採掘が始まり、災害や経営危機を乗り越えてきましたが、採掘量の減少や外国産との価格競争により昭和62年閉山となりました。
また、美濃と越前を結ぶ交通の要衝の地であったことは、木地師や山師の歸来も多く、源氏や平氏に関わる伝説を残しています。「青葉の笛」「穴馬踊り」「平家岳」等の文化や名称が語り継がれてきました。
標高の高い段丘にある集落は、朝夕の温度差、夏の涼しさ、冬の雪を活かした特産物や観光資源が豊富にあります。
九頭竜まいたけ、穴馬スイートコーン、穴馬かぶらは地区外にも大変人気のある食材です。
地区内の山々は山菜(ゼンマイ、ワラビ、ウド等々)の宝庫であり、川にはイワナ、アマゴ、マス、鮎などが清流に泳ぎ、夏のキャンプ場には家族づれで賑わっています。
近年、広い地区内に点在する集落全体で人口479人、226世帯となっており、ますます過疎高齢化の進行に伴い、地区全体の活気が低下してきました。
その中で、自治会を中心にして「ここに生き続けられるために」をスローガンに、地区住民全体の共通の思いを実現するために、様々な活動に取り組んでいます。